肖像と彫像にみるベートーヴェン
16歳頃のベートーヴェン
ヨーゼフ・ネーゼン作シルエット
現物は消失。F.G.ヴェーゲラーとF.リース著『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書Biographische Notizen uber L.v.Beethoven』(コブレンツ1838年出版)に掲載。
 上の「シルエット(影絵)」はベートーヴェンの最初期の伝記『ベートーヴェンに関する覚書』口絵ページに、「16歳のL.v.ベートーヴェン」として掲載されたものです。この本はベートーヴェンの親友F・G・ヴェーゲラー(1765−1848)とベートーヴェンのピアノの弟子F・リース(1784−1838)によるもの。やはり友人のシンドラーの提唱で彼を含む3人の共同企画として出発したのですが、意見の相違からヴェーゲラー[前半]とリース[後半]のみによって書かれました。このシルエットは、20世紀に油彩画「13歳のベートーヴェン」(ホームページ初回掲出)が浮上するまで、現存する最年少のベートーヴェン像とされていました。
"シルエットSilhouette"は17後半―18世紀にさかんに人物画に用いられた手法です。人物の向こう側に紙を貼りつけたガラス板をたて、こちら側から光を照射する。向こう側でガラス板に投影した影を描き取れば、容易にポートレートを作ることができ、切り絵にすることも可能でした。このようにして比較的簡単に作成することのできる影絵ポートレートは、親しい人とのやりとり、あるいは記念帳などに用いられたようです。
このシルエットのベートーヴェンはボン=ケルンの選帝侯の宮廷楽師の制服を着用しています。16歳頃すなわち1786−87年頃のベートーヴェンは、すでにボンーケルン選帝侯の宮廷楽師(第2オルガニスト)でした。
1787年3月25日頃、少年ベートーヴェンは憧れのモーツァルトに師事すべく、ウィーンにむけて出発しています。2週間後4月20日頃「母危篤」の報せをうけ、ボンに帰郷しますが、モーツァルトに会えたかどうかは不明です。母は7月に亡くなり、2歳の妹も死去。アルコール依存症の父と2人の弟の世話が、まだ17歳にならないベートーヴェンの肩にかかってきます。やがて父も1792年に他界します。弟に対するきわめて強い責任感、妻を得ることへの憧れ。これらは彼の人生をある意味で規定してゆくのですが、それはこの時期の家庭環境によって培われたと想像されます。
当時のボンは新しい息吹にみちていました。上のシルエットが作られた1787年といえばアカデミーが大学に昇格した年。各地から著名な進歩的思想家が招聘され、「読書協会」において革新思想が語られます。ベートーヴェンに影響を与えることになる歴史家オイロギウス・シュナイダーもこうした会合に出入りします。革命思想のゆえに彼はのちに処刑されるのですが。
ベートーヴェンにとってこの時期は落ち着かない日々だったとみえ、創作は数えるほどです。《ピアノ、フルート、ファゴットのための三重奏曲》WoO37(1786年)、前奏曲(ピアノ)WoO55(1787年)、歌曲《プードルの死への悲歌》WoO110(1787年頃)、ピアノまたはオルガンのための《全12長調にわたる2つの前奏曲》 Op.39(1789年)などがあげらます。
当時のドキュメントとしてベートーヴェンの手紙を1通、紹介しておきましょう。「母は肺病でした。多くの苦痛と苦悩に耐えたのち、7週間ほど前になくなりました。愛すべきよき母、最良の友でした。まだお母さんという甘い名を口にして、その呼びかけに応じてくれていたときの私以上に幸福な人間がいたでしょうか。今は誰にむかってその名を呼ぶことができるでしょうか。」(1787年9月15日。アウクスブルクのJ.W.v.シャーデン宛ての手紙)。
(藤本一子)
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