肖像と彫像にみるベートーヴェン
第1交響曲を世に出した直後30歳ごろのベートーヴェン
【左】シュタインハウザー・フォン・トロイベルクの画を
もとにしたヨーハン・ナイトル作成の銅版画
1801年秋ウィーンのカッピ社から刊行
【右】左の版画をもとにリーデルが作成しなおした銅版画
1801年ライプツィヒのホフマイスター社から刊行
左の画をごらんください。鋭い眼差しと、ひきしまった口元。肩のあたりは痩身を想像させ、全体に精悍な印象を与えます。魅力的なベートーヴェン肖像画です。下方部分の周囲には、ごく細く、版画の作者名が彫られています。
1800年4月2日、ベートーヴェンははじめて彼自身の収益のためのコンサートを宮廷ブルク劇場で開きました。プログラムは「モーツァルトの大交響曲、ハイドンの天地創造からアリア、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの7重奏曲、ベートーヴェン自身によるピアノの即興演奏、ベートーヴェンの新作の交響曲(第1番)」。大作曲家ハイドンとモーツァルトに自作を並べるという、異例の意欲的な構成です。ボンを出るときにヴァルトシュタイン伯爵が記念帳に書いてくれた言葉「ハイドンの手からモーツァルトの精神を」を実現するコンサートでした。左の肖像画はこの翌年に作成されたもの。第1交響曲を世に出した新進作曲家の自信が伝わってきます。
版画は4月の記念すべきコンサートの翌夏にウィーンのアルタリア出版社によって作成され、その年の秋にウィーンのカッピ社から発売されました。同社は9月にアルタリアから独立して自分の店を構えたばかりでした。
ところがこれに酷似した肖像版画が存在します。右に掲げたリーデルによる版画がそれで、いわば海賊版といってもよいもの。この版画がつくられたいきさつを短くご紹介しましょう。アルタリアの銅版画が作成された当時、ライプツィヒのビュロー・ド・ミュジク社のアントン・ホフマイスターが偶然ウィーンに滞在していました。彼は未発売の版画の見本刷り(?)を1枚入手し、すぐさまライプツィヒの同僚キューネルに宛てて次の趣旨の手紙を書きます。 “ベートーヴェン氏の出来たばかりの肖像画を同封します。ウィーンでは未発売なので、複製をつくって先んじて発売したらどうだろう。画家と彫版者の名前を削って、元のものとは別のようにみせかければいい。” (8月26日)
こうして海賊版画がつくられたのです。右の画をごらんください。たしかに画の周囲に記されていた作者名がなくなっています。ベートーヴェンの顔は心なしか丸く、目元もどこかしらマンガチックにみえます。どちらが実物に近いかとなると話は別ですが、いずれにせよ、当時のベートーヴェンは、ドイツの音楽出版社から、偽造の肖像画が出るほどの期待される作曲家になっていたのです。
右の版画をもとに、さらにいくつかの肖像画が描かれています。 これについては次回、ご紹介いたしましょう。
参考文献: Beethoven. Briefwechsel Gesamtausgabe.T(1783-1807). Hrsg. von S. Brandenburg, München 1996 Robbins Landon, Beethoven. His life, work and world. London 1992 
(藤本一子)
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