肖像と彫像にみるベートーヴェン
「ハイリゲンシュタットの遺書」を
書いた頃のベートーヴェン
クリスティアン・ホルネマン(1765−1844)作
象牙板に描かれた油彩ミニチュア画
1802年(6.5cm×5.4cm)
 多くの作曲家同様、ベートーヴェンにも何度か危機がおとずれました。そのうち、最も重要な時期とされるのが1802年頃です。今回はこの、危機の時期のベートーヴェンです。
 画の作者ホルネマンはミニチュア画とリトグラフ専門のデンマークの画家。イタリア、ドイツで学んだのち1798年から1803年までウィーン美術アカデミーに身をおき、ウィーン最後の時期にこのミニチュア画を制作しました。一見して、1801年に発売された銅版画(前々回に紹介)を踏襲して描いたことが明らかですが、こちらはホルネマンの技量に油彩画という材質が加わり、ベートーヴェンの意志的なキャラクターがいっそう、明確に示されています。数あるベートーヴェン・ポートレートの中でも出色の一枚とされています。
 実物は手のひらにおさまるほどの小さなものです。当時ミニチュア画は、親しい人への贈り物によく用いられたようで、この画も、のちに彼の友人に進呈されました(後述)。
 この画は、画家のサインから、かつては1803年作とされていましたが、近年の修復作業の過程でその数字が"1802"であることが判明しました(参考文献1および2)。
 この年1802年に、ベートーヴェンはウィーン郊外の保養地ハイリゲンシュタットで、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる手紙を書いています(10月6日)。じつは少し前、彼はピアノの弟子でイタリア貴族の令嬢ジュリエッタ・フォン・グィチャルディに「月光」ソナタを献呈するものの、彼女の母の反対にあって恋は破局。かたわら以前から兆候のあった難聴が進行し、音楽家としての前途に絶望します。彼は運命を呪い、死すらも願うのですが、結局は強い意思によって、芸術に生きてゆくことを決意するのです。こうした苦悩と葛藤と克服を綴った文書記録が、「ハイリゲンシュタットの遺書」です。
 ミニチュア画が1802年のいつ描かれたのかは不明ですが、いずれにせよ、こうした人生の出来事をまとった時期のベートーヴェンであることは間違いありません。
 さて、伝記上の出来事を映すかのように、1802年の作品には新しい書法への模索が示されています。主要作品をあげておきましょう。
 交響曲第2番Op.36、《ゲレルトの詩による6つの歌曲》Op.48、ヴァイオリンソナタ第6−8番Op.30、ピアノソナタ第16―18番Op31(第17番は《テンペスト》)、創作主題による6つの変奏曲Op.34、創作主題による15の変奏曲とフーガOp.35(《エロイカ》変奏曲)などです。どの作品も、演奏技巧と感情表現が、斬新な形式のうちに羽ばたいています。これらによってベートーヴェンは、これまでにない近代的な自己主張の音楽世界へと踏み出したといえるでしょう。
 ところで、上のミニチュア画は、「遺書」の数年後に友人に進呈されました。その顛末を紹介しておきましょう。
 1804年5月、ベートーヴェンはアルザーグルントの「赤い館」に引越します。同館には幼なじみのシュテファン・フォン・ブロイニングも部屋を借りていたところから、やがてベートーヴェンは彼のところに転がりこみます。ところが自分の部屋を解約していなかったため家賃を請求され、その責任をめぐってシュテファンとトラブルを起こすのです。自らの非を認めず飛び出したものの、心がとがめたベートーヴェンは、新住居から、この友人に「詫び状」を出します。「大好きなシュテファンが、この画に免じて、いっときの出来事を永久に葬ってくれるように…。僕が君の心を傷つけたことはわかっている…」(1804年11月)。手紙に添えられたのが上のミニチュア画です。シュテファンはトラブルを水に流し、1806年には《フィデリオ》の台本改作に協力することになります。
【参考文献】 (1)Theodor von Frimmel, Beethovens aussere Erscheinung, in: Beethoven-Studien I,Munchen-Leipzig 1905,S23 (2)Beethoven. Briefe Band1 Hrsg.von Brundenburg.1996Muenchen, S227
(藤本一子)
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