肖像と彫像にみるベートーヴェン
《エロイカ》の時期のベートーヴェン
ヴィリブロート・ヨ−ゼフ・メーラー作
1804または1805年 油彩画
ベートーヴェンの本格的な肖像画のうち、唯一、全身を描いたもの。1804年または1805年に制作された、傑作期に入ろうという時期のベートーヴェン像です。
画家メーラー(1778-1860)は、ドイツのラインラント地方エーレンブライテンシュタイン出身の人物で、ベートーヴェンのお母さんと同郷です。ドレスデンで学んだのち1803年頃からウィーンの美術アカデミーに身をおき、ベートーヴェンとは友人シュテファン・フォン・ブロイニングを通じて知り合いました。出身地の関係からか、二人はすぐに親しくなったようです。
画家の回想によれば、「後景はアポロンの神殿。左手にリラをとり、右手は音楽に熱中して拍をとっているかのようなポーズ」。ここには、プルタルコスやカエサルといった、ギリシャ・ローマの英雄を範とした音楽の英雄が描かれているとみられます。
この画が描かれた1804‐05年は、ナポレオンがウィーンを制圧した時期でした。1804年5月パリに新憲法が発布され、ナポレオンが終身皇帝に即位。これに対抗してオーストリアは「オーストリア帝国」を布告するのですが政治的力はなく、11月にはナポレオン軍がウィーンに無血入城し、シェーンブルン宮殿に駐屯します。ナポレオンがパリのノートルダム聖堂で華麗な戴冠式を執り行うのは、翌月のこと。こういった空気の中で、1804-05年のウィーンは、"フランス軍一色"だったと伝えられています。ナポレオンの台頭を背景に、オーストリアにおいても"英雄"は社会のリーダーとみなされていたことが理解されますがが、この画にもそういった風潮が映し出されているとみてよいでしょう。 
この時期のベートーヴェンの重要な活動としては、まず《エロイカ》交響曲の初演があげられます。《エロイカ》は1804年の春から秋にロプコヴィツ侯爵の支援をうけて、ウィーンとボヘミアの侯爵邸で何度か演奏されたのち、翌1805年4月にウィーン劇場で公開初演されました。現存する《エロイカ》交響曲の浄書総譜表紙には、専門の筆写師によるタイトル書き「大交響曲/ブオナパルテに捧ぐ/ルイス・ヴァン・ベートーヴェン氏による」のうち、「ブオナパルテに捧ぐ」が激しく消された跡が残されています。ナポレオン戴冠式の報に憤ったベートーヴェンによるものと伝えられています。
1804-05年には《エロイカ》交響曲に続いて「傑作の森」を代表する作品が次々とあらわれます。ピアノ・ソナタ第22番Op.54、第23番《熱情》Op.57、オペラ《レオノーレ》Op.72、歌曲《希望によせて》Op.32などです。
伝記上のエピソードとしては、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人との恋愛があげられますが、この恋はなおしばらく続きますので、次回にとりあげることにしましょう。
ベートーヴェンはこの画を気に入って終生、手元においていました。画は没後、甥に相続され、1960年に遺族からウィーン市立博物館に移譲されました。
(藤本一子)
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