肖像と彫像にみるベートーヴェン
《ラズモフスキー》作曲の頃のベートーヴェン
ノイガス作 1806年 油彩画
上の肖像画は2点とも、1806年頃に描かれたものです。1806年といえばベートーヴェンは36歳。「傑作の森」といわれる時期に入り、"ベートーヴェン的"とされる書法を、確実に展開し始めています。
画の作者はベルリン出身のイシドール・ノイガスIsidor Neugass(1780頃-1847以後)。ベルリンのアカデミーで学んだのち、ヨーロッパ各地で活動しながら、ときどきウィーンにも滞在しました。ハイドンの肖像画でも有名です。
左は、ベートーヴェンの支援者として知られるカール・リヒノフウキー侯の注文で制作。ハンガリーのグレーツにある侯爵の館にかけられていました。画には「ノイガス、ウィーン1806」のサインがありましたが、画を修復する過程で隠れることになり、額縁に書き写されました。現在ボンのベートーヴェン・ハウスに収蔵。
右の画は、そのあと、ハンガリーの貴族ブルンスヴィク家のために制作されたもので、ブルンスヴィクの館にかけられています。ベートーヴェンはブルンスヴィク家のピアノ教師をしたことがあり、フランツ(1777-1849)、テレーゼ(1775-1861)、ヨゼフィーネ(1779-1821)とは特に親しくしていました。
この肖像画に描かれた頃のベートーヴェンは、ヨゼフィーネと恋愛関係にあったようです。ヨゼフィーネは1799年にダイム伯爵と結婚。1804年夫に先立たれたのち、急速にベートーヴェンと親しくなりました。二人の恋のゆくえは、20世紀になって発見された「13通の手紙」を通して、うかがい知ることができます。1804年に溢れはじめた互いの尊敬の感情は、激しい愛へと燃え上がるのですが、しかし1806年末にはヨゼフィーネはベートーヴェンの感情に距離をおくようになり、1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚してしまいます。
1806年のベートーヴェンの創作には目覚しいものがあります。ピアノ協奏曲第4番、《ラズモフスキー》弦楽四重奏曲、交響曲第4番、ヴァイオリン協奏曲、オペラ《レオノーレ》改訂稿などが挙げられます。とりわけひさびさの弦楽四重奏曲である、通称《ラズモフスキー》作品59(3曲)は、この時期のベートーヴェンの斬新な動機書法を示す傑作でしょう。
それでは二人の往復書簡から一部をご紹介しましょう。 「・・ただ一人、愛する人−尊敬をはるかに超えているもの−すべてをこえているもの−それを表す言葉が、なぜ、ないのでしょう−(中略)−あなたは私のすべて、私の至福−ああ−できない−私の音楽をもってしても、表すことができない。たとえ自然が私に惜しみなく才能を与えてくれたとしても、あなたにとって、それはあまりに小さい。−私の哀れな心臓が静かに波打つだけなのです−それ以上のことは、自然は何もできません−あなたのために−つねにあなたのために−あなただけが−私の慰めなのです−…」(ベートーヴェンから.1805年春―夏頃)。/「愛するベートーヴェンさま…あなたが私に与えてくださったこのよきこと、あなたとのお付き合いの楽しみは、私の生涯において最も美しい飾りとなることができたはずです、あなたが私をもう少し感覚的にではなく愛して下さっていたなら。私がこの感覚的な愛に満足できないことで、あなたは立腹なさっています。もし私があなたの要望を聞き届けていましたら、私は厳粛な絆を断ち切ってしまわなくてはならなかったでしょう。信じてください−義務を遂行することで最も苦しんでいるのは私なのです…」(ヨゼフィーネから.1806-07年にかけての冬。)
ヨゼフィーネに対する憧れと苦悩は、1805年の創作、とくに歌曲《希望によせて》作品32と《熱情ソナタ》作品57に映し出されているようです。
(藤本一子)
Copyright (C) 2000-2001 Kunitachi College of Music - Research Institute.
All Rights Reserved.