肖像と彫像にみるベートーヴェン
《エリーゼのために》の頃のベートーヴェン
S.v.カロルスフェルトによる鉛筆画
1810年頃?オリジナルは消失
生前に描かれた肖像画が、ベートーヴェンほど多い作曲家はいないでしょう。版画、油彩画、クレパス画、鉛筆画とジャンルが多岐にわたっていること、また公的なものと、私的なスケッチ類の両方がそれぞれ多数、残されていることも特徴です。
今回は鉛筆スケッチ画による"40歳のベートーヴェン"です。かつて研究者ランドンはこのスケッチ画を1808年と特定しましたが(1970年)、近年では、さまざまな伝記上の背景から、「1810年頃」に描かれたとみることが一般的になりました。すなわち、この鉛筆画は、イタリアのトスカナ出身の商人ヤーコプ・フォン・マルファッティJakob von Malfatthi家の夜会に集う人々を描いた"肖像画集"の中の1枚であり、ベートーヴェンがここに出入りしていたのは1810年頃であることが判明したからです。
マルファッティ家は絹織物を扱う富裕な商人で、その音楽の夕べには、宮廷官吏や音楽家たちが集ったようです。ベートーヴェンの医師として知られるヨーハン・バプティスト・フォン・マルファッティも加わっていました。彼は当主の従兄弟にあたります。画の作者シュノル・フォン・カロルスフェルトSchnorr von Carolsfeldもここに出入りしていた人物です。
ベートーヴェンがここを訪れるようになるのは1810年頃。20年来の親友で法律家のイグナツ・フォン・グライヒェンシュタイン男爵(1778-1828)の紹介によるものでした。夜会の中心は、それぞれピアノとギターをよくしたテレーゼとアンナの姉妹で、男爵は妹アンナに関心があったようです。姉のテレーゼ(Therese,1792-1851)は黒髪の情熱的なイタリア女性で、当時19歳。その魅力に捉えられたベートーヴェンは頻繁にマルファッティ家を訪れるようになり、5月にテレーゼに求婚します。5月2日にボン在住の友人ヴェーゲラーに「できるだけ急いで洗礼証明書を送ってほしい」と頼んだのは、結婚のためであると推測されています。しかし、ベートーヴェンのプロポーズは拒絶されたことが、グライヒェン男爵の手紙から伝えられています。マルファッティ家はまもなくウィーンを去り、テレーゼは1816年ハンガリーの男爵ヨーハン・ドロシュディクと結婚しました。かつての《月光ソナタ》のジュリエッタ・フォン・グィッチャルディへの恋を想起させるエピソードではないでしょうか。
ところで、ベートーヴェンはこの時期に、ピアノ曲(通称《エリーゼのために》)WoO59を残しました。この曲の自筆譜はテレーゼ・フォン・マルファッティの所有ののち、別の女性に渡っていたのですが、これを発見したのは研究者L.ノールでした(1865年)。彼は、著作の中で、楽譜を公表するとともに、「自筆譜には"fuer Eliseエリーゼのために4月27日に.ベートーヴェンへの思い出のために"と書かれていた」と述べました(1867年)。しかし、伝記資料からは、エリーゼという女性は浮上せず、自筆譜も消失していて確認することができません。研究者ウンガーは、「fuer Thereseテレーゼのために」と書かれていたのをノールが読み間違えたたに違いないと推測。現在では黒髪のテレーゼこそ、この小品が献呈された女性とされています。なお、この曲についてはスケッチが現存しますが、そこには女性の名前はなく、「バガテッレ」とだけ書かれています。ちなみに妹アンナは、1811年にイグナツ・フォン・グライヒェン男爵と結婚しました。
それでは1810年に完成した、そのほかの作品をあげておきましう。
ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調(《告別》)作品81a、《『エグモント』のための音楽》 作品84 、ゲーテの詩による三つの歌曲作品83、弦楽四重奏曲第11番ヘ短調(《セリオーソ》)、軍楽のためのエコセーズWoO21−23.ほかに、26のウェールズ民謡編曲WoO155、25のアイルランド民謡編曲WoO152があげられます。
(藤本一子)
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