ケネス・E・ブルーシア教授 講演記録

「音楽療法とは何か」

2001118日(木)2:004:00

於:1号館308教室

通訳:生野里花 (日本音楽療法学会認定音楽療法士)

 

 この度は、村井先生、生野先生には私の日本訪問を計画・調整していただき、暖かく迎えていただきましたことに心から感謝しております。講演の合間には、東京を見物する機会を持つことができましたし、昨日は村井先生が歌舞伎を観に連れて行ってくださいました。もし私が生まれ変わって音楽療法に携わることがないのであれば、歌舞伎役者になってもいいなあと思いました。

 さて、30年も前のことになりますが、私はテンプル大学の音楽療法部門で教えはじめました。私たちは学部レベルでの授業から始めました。当時アメリカでは既に音楽療法の4年制プログラムは、かなり確立されていたのです。今日ここで皆さんの顔を拝見していますと、当時大学で音楽療法を勉強しようという学生が私のところにやってきて、音楽療法について質問しようとするときのことを思い出します。どの学生も必ず「音楽療法とは何でしょうか」と尋ねます。そこで私はいつも同じ話を彼らとすることになります。彼らは必ず「私は何よりも音楽が大好きです。」と話し始め、「私は人を助けるような仕事がしたいと思っています」、あるいは「私は心理学に興味を持っています。」「私は医者のような仕事もしたいと思っています。」と語ります。私はそれを聞くといつも、音楽療法というものの特質が見えてくるように思います。それは私が持っている二つの情熱を組み合わせるものであり、私のやりたかったことでもあります。長い間学生たちはいったい音楽療法とは何なのか、ということがよく分からずにいたのです。私は彼らにまず「何か本を読んでごらんなさい」と勧めました。読むということで、音楽療法というものが自分の考えていたものと同じであるか、違っていたかということが分かってくるものです。

 本日のお話は、まず音楽療法とは何であるかということを皆さんにご紹介するところから始めたいと思います。問題は、音楽療法とは必ずしもひとつのものではないというところでしょう。音楽療法は、本当に多種多様な場所で用いられています。また多種多様な問題を扱っています。それぞれの音楽療法士が開発した技術や方法も又、多種多様です。ですから音楽療法というのは、非常に豊かで多様な世界であるといえるでしょう。今日のお話では、音楽療法の定義というものを皆さんにお示しする前に、音楽療法の分野でどのようなことが行われているのか、その多様性を知っていただく必要があるでしょう。また、私自身がこれまで行ってきた実践の内容についてもお話したいと思っております。私はこれまで、様々な仕事を渡り歩いてきました。この話を聴いて、皆さんは自分が接している対象者の場合と同じであるか、あるいは違っているかということが、ご自分で見えてくると思います。

 もう一つの音楽療法を理解する方法というのは、あなた方自身にとって音楽とは何を意味するのかということについて考えをめぐらすことです。私が、音楽療法を勉強したいという学生に必ず尋ねることがあります。「あなたのこれまでの音楽にまつわる人生について書いてみてください」というものです。例えば、あなたが初めて歌を歌ったときのことを思い出してみることができるでしょうか?お母さんと歌ったでしょうか、それともお父さんとだったでしょうか。その歌を憶えていますか?その歌が自分にとってどれほど大切なものであったかを思い出すことができますか?その歌を歌っていたときに感じていた気持を思い出すことができるでしょうか?また、家族で分かち合っていた歌を思い出すことができますか?あなたのお父さん、お母さんは音楽をする人だったでしょうか。もしご両親が音楽を演奏する方であったなら、子供として見ていて、その技術についてどう思われましたか?

 今日ここにお集まりのみなさんは、ご自分の人生において音楽を学んでいこうとしておられるのですね。きっとこれまでの人生において、敬服するような演奏をした人に出会ったのではないでしょうか。器楽にせよ、歌にせよ、初めてこれを勉強していこう!と思ったときのことを憶えていますか?それとも、ご両親のどちらかが、あなたに音楽を勉強していきたいのか?と訊いたのでしょうか。

 初めて楽器がやって来て、それが自分のものとなったときのことを憶えていますか?私は両親が私にピアノを買ってくれたときのことを憶えています。それはまるで新しい友が自分の生活にやって来たというような気持で、興奮したものです。学校から帰るなりピアノのところに走っていって練習を始めると、全く自分自身の世界に没入していました。ほんとうに素晴らしい時間を過ごしました。

 こういったことすべては、いったい音楽とは何かということについて語っているのです。音楽にはどのような力(パワー)があるのでしょうか。音楽とはどうしてこんなにも人間にとって大切なものなのでしょうか。あなたが、こんなにも音楽をやりたいと思うのはなぜでしょうか。皆さんは成長して、いまやご自分の楽器をマスターしていますね。そしてまたラジオやCDなどで、色々な種類の音楽を聴くようにもなっていますね。初めてのボーイフレンドやガールフレンドに出会ったことでしょう。そのときの自分にとっての歌というものを今でも思い出すことができると思います。皆さんは今学校に通っていますが、今あなたが練習している楽曲のことについて考えてください。その作品を練習するのに、どれくらいの時間を費やしているでしょうか。きっと新しい曲に挑むたびに、何か新しい戦いや努力があることでしょう。その音楽があなたに挑戦をつきつけてくるのですね。曲をひとつこなすたびに、何か新しいことを征服していくことでしょう。先生もまた同じように、新しい挑戦をあなたに課してきます。このように何年も繰り返していくうちに、何かを達成していきます。それを成すためには、自分自身を規律正しく律することや、そのことへのたくさんの愛情が必要ですね。なぜ皆さんはこのようなことをやろうとするのでしょうか。おそらく音楽の中には何か重要なものが存在するのではないでしょうか。それがあなたにとって意味のあるものであり、皆さんが音楽を深く愛しているからこそ、音楽家になるためにこれらたくさんの犠牲を払っているのです。

 これまでお話したことはすべて、音楽療法の基盤にあることです。何が一人一人の音楽療法士を導いているのでしょうか?それはその人たちがもっている自分自身の音楽との関係性なのです。音楽が自分自身にとってどれほど大切なものであるかを知っている、ということがその根底にあります。また、他の人々がどれほど音楽を愛していて、音楽からどれほどの恩恵を蒙っているか、ということを理解していくことも、その根底にあるのです。

 

T:青少年施設

 私が最初に臨床の仕事の場に出た、若い頃の話から始めましょう。私が心理職として就いた最初の場は、青少年のための施設でした。ここは不登校、不就労、麻薬中毒、不良グループなど、非常に難しい問題を抱えた青少年のための施設で、私の仕事は彼らのカウンセリングをすることでした。彼らに働くことを勧めたり、何か職業訓練を受けるように勧めたり、学校に復学するよう勧めたりするのです。しかし彼らは、この彼らを援助しようとする施設のシステムそのものを信頼していませんでした。ですから、最初の約束の時間には現れて何かカウンセラーと話をしたりはしても、家に帰ると、もうそれきり戻ってこないということが続いていました。

 そこで私は彼らとの話を、音楽についての話題から始めてみることにしました。

「音楽は、毎日何を聴いているの?」

「えーっとさあ、音楽を聴いたりさあ、楽器を弾いたりするんだよ。」

「ああ、何を聴いているの?何を弾いているの?」

 こうして私が質問し、彼らが答えるというやりとりは、彼らにとって大切なことではないかと私は考えました。彼ら自身の世界の一部分を話してくれており、それは彼らにとって、とても個人的なことだったからです。

 そこで私は、彼らのために音楽のグループを作ろうと決心しました。毎回新しい人が来るたびに、「火曜日の夜、音楽のグループをやるから、なんでもいいから楽器を持っておいで。君のギターでも、ベースでも、ドラムでもなんでもいいよ。どうなるか分からないけれど、やってみようじゃないか。」と伝えました。最初の晩には何人かがやって来て、次の週には2倍になり、ほどなく部屋は若者でいっぱいになりました。彼らも気がついたのです、「ここに来ると楽しい」と。

 私は彼らが音楽をやれるように、グループをうまく組織作っていきました。誰かは曲を選び、誰かはキーを決め、そして誰かは歌ったり弾いたりするかを決めなくてはいけないというふうにです。このような援助を続けていくうちに、音楽それ自体のレベルが上がってきて、うまく演奏できるようになってきました。今や彼らは、家にこもっていなくとも来るところができましたし、仲間と会える場をもっています。ここでお互いの関係を作り上げていくようになります。こうして彼らは自分自身の人生について、それまでよりも関心を抱けるようになります。

 もうひとつここで起こったことは、私が彼らの音楽を尊重しているということを彼らが学んだということです。私は彼らを組織立てる援助はしましたが、私自身の音楽の趣味を彼らに押し付けることは、決してしませんでした。座って彼らの演奏に耳を傾けるという役割に徹していました。すると彼らは私を信頼するようになったのです。数ヵ月後には、私のオフィスには彼らが繰り返して訪れるようになり、その施設のどのカウンセラーよりも多くの若者が集まるようになりました。

 しばらくたって、彼らはメーキング・ビデオを始めました。彼らの歌はとても上手になったからです。なにしろ一週間の間に、よく家で練習してきますし、ほんとうにうまく演奏しました。やれる歌全部を集めて、ビデオにしようというのです。彼らの演奏をバックに、彼らが撮った風景が映し出されるというものでした。そのうちに彼らは、既成の曲でなくてもいいのではないかということになり、自分たちで作曲を始めました。何年かすると、彼らは撮影した風景にあわせた音楽を、自分たちですべて作るようになりました。こうして彼らの人生は、それまでよりもずっと意味のあるものとなったのです。このグループに参加した若者は、最終的には全員が、学校や職場に戻っていきました。

 これが私にとっての音楽療法の、最初の導入でした。ここで私が学んだのは、クライエントについていく、彼らを信用してついていくということの大切さである、ということがお分かりいただけたと思います。

 

U:精神病院

 この頃私は別の職場での仕事も始めました。それは精神病院でした。そこでは患者さんは平均して6週間ほど入院するという規程で、年齢層は18歳から60歳くらいでした。治療には3段階あります。第一段階は投薬中心の治療です。何か神経が参ってしまっているといったことで、薬を処方されるのです。第二段階では、薬の服用に慣れてきたところで、言語による療法を併用するようになります。私はここで働き始めました。とはいえここでも私は、何から手をつけてよいのか分かりませんでした。そこでまず患者さんに、音楽について何か関心がありますか?と話しかけることから始めてみました。すると多くの患者さんが、入院していると家に置いてきたレコードを聴くことができなくなったのが寂しい、そして、自分が聴いていた曲を弾いて欲しいと話すのです。もちろんレコードの音楽とそっくり同じように弾くなどということは不可能です。ビートルズやバーバラ・ストライサンドの曲を複製することなど、できるはずもありません。そこで私はちがう手段をとることにしました。お宅に電話をして、ご主人か奥さんに連絡をとり、今度お見舞いに来られるときにはレコードを持ってきてくださいとお願いしておきました。そして患者さん同士の集まりで、今度皆さんに聴かせてあげたいと思うレコードを持ってきて下さいと伝えました。

 すると信じ難いことが起こったのです。一人の患者さんが、皆さんに聴いて欲しいという曲をかけると、その患者さんが抱えている感情や問題が明らかになっていくのです。そこで私は、一人一人が皆、自分の音楽を持っているのだということを発見しました。理由はそれぞれでも、その人にとって大切な意味をもっているのです。それは、過去のことを思い起こす曲であったり、自分がどういう人間であるのかということを表現する曲であったり、ある人に捧げる気持を表す曲であったりします。自分にとって大切な曲というものを持ち寄って、それを他の人と分かち合おうとすることは、自分をとても親密な方法で表現するということが起こります。

 他の領域のセラピストがこれを見て、自分たちの得る情報よりも、ずっと多くの情報が音楽療法では得られているということに気がつきます。歌というものは、その人にとって大切なものをすべて含んでいるのです。その曲を他の人に向けてかけるとき、あたかもその人が他の人に向かって自分自身を表現しているかのように見えます。

 第三段階は、ファミリーメンバーです。患者さんは自宅に帰り、週一回のサポート・ミーティングを受けるために、家族とともに来院します。精神科の患者さんが家に戻ると、家族との関係においてさまざまな問題を抱えることになるのですが、それについて両方の側からの意見を聞くことになります。複数の患者グループは、常に同じ構成を保ちます。あるミーティングで、一人の患者さんが家族に対して言いました。「何か歌ってよ。」

 そこで思いついたアイディアは、患者さんに彼が愛する家族の一人のために何か歌を持ってきてもらい、またその愛されている家族も、彼のために何か歌をもってきてもらいます。そしてみんなで座って、その個人の歌を全員が聴くのです。そしてその歌について、なんでも言いたいことを言ってもらいます。こうすることで、患者さんとその家族間のコミュニケーションが増大するのです。そうして続けていると、そこにいるグループ全員が気づいたのは、ある家族が自分の伴侶に対して抱えている問題は、みな同じように抱えていることだということでした。

 

V:老人ホーム

 次の仕事は高齢者を対象とするもの、それは老人ホームでした。ここでも三段階のケアがありました。アルツハイマーの入所者も、ふだんは家で過ごしていて、デイプログラムに参加する方もいましたが、彼らはすべて正教会のユダヤ人でした。これは1960年代のことで、彼らは世界大戦を生き抜いてきて、その時点では家族と死別したか、離れ離れになって、老人ホームに一人で暮らしていたのです。私はそこでも、この方たちと何ができるのだろうと考えなければなりませんでした。そして歌を歌うことから始めてみようとは思ったのですが、私は彼らの歌を全く知らないという問題がありました。私はユダヤ人ではありませんから、彼らの歌を知るはずもありません。私は当時28歳、彼らは75歳。しかも全く異なる文化を持った人たちです。彼らはどんな歌を持っているのでしょうか。

 そこで私は彼らに尋ねます。

「どんな歌が歌いたいですか?」

彼らは歌の題名を答えてくれました、ヘブライ語で、ドイツ語で、イタリア語で…。私の知らない曲ばかりでした。彼らは言います。

「この曲も知らないなんて!でもまあ、許してあげよう、君はまだ若いのだから…」

そして

「仕方がない。教えてあげよう。そうしないと君が職を失ってしまうかもしれないからね。」

彼らは、この若い青年が自分たちの大切な歌を知らないということを、心から心配してくれました。セッションのときには、彼らは急いでやってきて、ドアを閉めて、

「さあ、次の歌を勉強しよう」

と言うのです。彼らがメロディーを歌い、私がピアノで音を探し、何とかハーモニーをつけてマスターしたとなると、「さあ歌おう」ということになります。その演奏がうまくできるまで練習しました。

 ここで私が気づいた興味深いことというのは、入所者たちは、彼らの部屋ではお互いに話をしている様子がないということでした。というのは、私が出勤して、それぞれの部屋に行って、

「コーウェンさん、こんにちは!ごきげんいかがですか?今日は音楽に来てくださいますか?」

「ええ、もちろん伺いますよ。でも私、今日はハリーさんには怒っているんですよ。」

「ハリーさんが、どうしたんですか?」

「あの人、頭がおかしいんですよ!」

「まあまあ、それはさておいて…」

さて、ハリーさんの部屋に行って

「ハリーさん、こんにちは!今日は音楽に来てくださいますか?」

「ええ、もちろん。でも私、今日はコーウェンさんには会いたくないですねえ。」

「どうしてですか?」

「あの人は、頭がおかしいんですよ!」

つまり、お互いに相手が狂っていると言っているのですね。自分が健康であろうとすると、狂っていると感じた人からは離れていたいとお互いに考えます。ところが音楽の部屋に来ると、彼らはみんなで、この哀れなイタリア青年を心配してやらなければなりません。彼は自分たちの曲を知らないし、学校に通わなくてはいけないし、ここで職を失うわけにはいかないからです。こうして4ヶ月ほどの間に、私はおよそ百曲ほどのユダヤの歌を覚えることになりました。

 こうした歌を歌っている間に、いろいろなことが起こってきました。最初は私が知っている曲からセッションを始めます。そしてその曲について何か質問を投げかけます。

「あなたにとって、この歌はどのような意味があるのですか?何を思い出すのですか?」

歌い終わると、その歌についての話、自分の人生についての話が始まります。そこで分かったことは、コーウェンさんは、ハリーさんと同じころに息子を亡くしていることを知ります。ハリーさんは、コーウェンさんが、自分が夫を愛しているのと同じくらい、彼女の夫を愛しているということが分かります。彼らの人生で、同じ時期に同じようなことがお互いに起こっていたのだということが分かり始めます。

1940年ごろ、どんなことがありましたか?あなたのお子さんはどこにいましたか?軍隊にいたのでしょうか?ご主人はどこにいたのですか?あなたはどこに住んでいたのですか?」

こうしているうちに、このグループは急激にお互いに関心を持ち合うようになります。もっと重要なことは、かれらの孤独感が減ってきたのです。

 ここで私は、歌というものが人間にとって大切である、ということの別の側面を発見しました。初めにお話した青少年たちが、彼らの歌を創作したり、アイドルのまねをして演奏していたことと、どのような違いがあるでしょうか?精神科の患者さんにとって、歌は彼らの人生を包み込むような意味をもっていました。この高齢者の方たちにとっての音楽は、グループで歌を一緒に歌うということが、彼らの思い出を通して、お互いにつながっていくという意味を持っていました。

 

W:精神遅滞者の施設

 私はニューヨークに住んでいる間に、実に沢山の仕事を経験しました。そして今度はフィラデルフィアに職を得ました。自分の勉強のコースも修了しましたので、どこか別の場所で仕事をしようかと考えていたのです。そして、フィラデルフィアのテンプル大学で音楽療法の教授スタッフを募集していることを知りました。そこでは、教えると同時に、その大学があるペンシルベニア州の施設で実践するという仕事も含まれていました。それは精神遅滞者のための施設でした。

 私はそれまでに精神病の患者さんやアルツハイマーの方との臨床の経験はありましたが、精神遅滞の人との臨床経験はありませんでした。また初めから勉強をすることになりました。多くの精神遅滞の方というのは、歌というものを知りません。機能の低い対象者であれば、歌というもの自体を理解しないということもあります。私がこれまで実践してきた、三つの対象のための手法は、ここでは全く役に立ちません。高い機能を持つ精神遅滞の方であっても、同じ方法では歌を用いることはできません。多くの場合、彼らは歌詞を覚えていることができません。歌を歌うことができないこともあります。初心に帰ってやりなおすことになりますが、このときにも私は同じ原理を用いました。それは「クライエントについていく」ということです。

 比較的高い機能を持った障害者の場合であっても、かれらはグループで一緒にやるということは難しかったり、座っていることができない、注意を払うということができない、お互いに協力するということができないといった状態でした。そこで私は、彼らにこうしたスキルを学び取るために、音楽を構造化して提示するとことにしました。まず手始めに、彼らのためにハンドベル・クワイヤを作りました。ハンドベル・クワイヤでは一人が一音程を受け持ちます。ハンドベルはかなり高価な楽器ですから、2オクターブくらいしか、その施設にはありませんでした。しかも各音一個のベルです。そこで彼らにひとつずつベルを渡し、一列に並んでもらって、メロディーを作ろうとしました。音階順に並び、私が彼らの前で一人ずつを指差して音を鳴らそうとしましたが、うまくいきません。まずベルが鳴らないのです。私たちはベルを振って、鳴らすことを覚えることから始めました。やっと鳴らすことができるようになると、今度は共鳴を止めることを覚えます。まず、この動作を覚えましたが、次の課題は、私が指を差しても、彼らが注意を向けていないということでした。やっと注意を向けることができるようになると、今度はメロディーラインに沿って、その拍子どおりに鳴らすことができないのです。なぜならメロディーということを理解するためには聴かなければならないからです。私が差したときに鳴らすというだけではなく、彼らがお互いにメロディーという関連性の中にあるということを理解できないと、リズムどおりに鳴らすことはできません。一週間に2-3回、こうしたことの練習を重ねていきました。

 さて一通りできるようになると、今度は白い手袋をはめます。すると彼らは何だかとても重要な役割を与えられたという気持になります。更には衣装も考えてみます。長いガウンをまとってみます。すると彼らは、とても重要な役割なのだということを感じて、もう少し難しいこともやってみようという気持になります。そこで私はベルに音名があるということを教えます。

「もう君たちを指さないよ。君はA、君はB、君はC、君はD。」

そして私は黒板に音名でのメロディーを書き、その音名を指差しながら、メロディーを鳴らすことを教えます。

「さあ、やってみよう。君たちを指さないで、この文字を指すからね。私が君の音名を指したときに鳴らすんだよ。さあ、よく見ていて!」

といいながら、メロディーを指していきます。彼らは、その複雑なリズムに驚いています。

「よく注意して。お互いに聴きあって。みんなの中での自分の位置をみつけなければいけないのですよ。」

 さて、私がこれまで彼らに教えたことを思い起こしてみてください。あなたには、あなたの場所がある。あなたには役割がある。あなたは大切な存在です。あなたは、みんなに合わせます。みんなは、あなたにかかっています。あなたは、みんなにかかっています。そのためには注意を払わなければいけません。一生懸命にやらなければいけません。自分に課されていることをやらなければなりません。

 こうしてほどなく、6ヶ月ほどでしょうか、和声をつけることができるようになりました。和声をつけるためには、だれかは二個ベルを持つ必要があります。彼らは今度は音名を二個見なければなりません。だんだん複雑になってきました。すると彼らは自分たちのことを誇らしく思うようになります。彼らは両親たちに、自分が音楽を演奏しているところを観て欲しいと考えるようになります。白い手袋に長いローブを着て、音名の文字を読んでいるところを、ですね。そこで私はタレントショーのような発表会を思いつきました。更にはその施設を挙げての大きなイベントを企画し、施設のすべての子供たちの両親を招待することになりました。子供たちが音楽でどのようなことをしているのかを観ようという会です。ここではアートセラピーも行われていましたので、そうした展示も一緒に行いました。タレントショーというからには、ハンドベル・クワイヤだけでは足りません。そうこうするうちに、タレントショーが企画されているということを聞きつけた彼らは、それぞれ自分が出演したいと申し出てきます。タレントショーに出られるなら、先生の言うことは何でも聞いちゃおう、といった雰囲気になってきました。ハンドベル、ドラム、音積み木、トーンチャイムなどを使って、それまで練習していなかった新しい曲にも挑戦しようとしました。なんと、ドラム四重奏、マリンバ三重奏、歌唱、オペラ歌手もどき、口パク演奏。その間に他のグループが伴奏をつけるといったこともできました。そうするうちに、この施設全体の音楽文化といったものが育ってきたのです。多様な機能のレベルにある人たちがみんな集まって、それぞれ何かに挑戦し、それまではできないと思われていた新しい何かが出来るようになり、自分に誇りを感じるようになりました。そして一緒にやるということを学び、音楽を通して身に付けた様々なスキルを、教室に戻って他のことにも役立てることが出来るようになりました。すると教室の先生が私のところにやって来て、子供のことについて助言を求めるようになりました。

「このことをどうやって教えたらいいでしょうか?」

「この概念を容易に分かってもらうためには、どのようにしたらいいでしょうね?」

「この概念を教えたいのですが、あなたの歌の中にうまく取り込んでもらえないだろうか?」

「この概念をミュージックグループの中で教えてもらえないか?」

 こうして私は、突然にまた新しい音楽療法の領域に向き合うことになりました。私たちの施設には、自閉傾向や情緒障害をもった子供もいます。こうした子供たちは、構造がはっきりした音楽活動は苦手です。そこで何とか、まず音楽に注意を向けてもらうことから始め、次には構造で彼らを圧倒することのないような音楽の中にまず入ってきてもらいます。彼らには自由を与えます。彼らにはグループの活動は不向きです。または、ほんとうに小さなグループで行います。そこで私は即興という手法を始めました。子供たちの何人かは、椅子に座っていることができません。楽器を演奏するということができません。私と君とが、今向き合っているのだよ、ということを理解することができない子供たちです。ただただ部屋の中を走り回っているだけで、私が彼らを椅子に座らせて引き寄せようものなら、そして彼らのために何かを弾いてみると、部屋から走り出ていってしまうか、私をたたくか、叫ぶか、泣くか、ということになります。ですから私は彼らに何とか優しく接する方法を考えました。最初にこの子供たちに対して始めたのは、即興で音楽を演奏することで、彼らとの間に、何か接触を持とうということでした。まず、最初は、彼らの動きに合わせてピアノを弾くことから始めました。彼が部屋に入ってきて、とてもゆっくりと動いている、ためらいがちに動いているとすると、こんな風に弾いてみます。

(ピアノ演奏)

こんな風に弾きながら、私は彼が動きを止めるときを測っています。そして又動き始めると、それにピアノでついていきます。もしも休んでいるようであれば、こんなこともしてみます。

(ピアノを演奏しながら)

私が和声をつける方法は、彼らが今緊張にあるのか、リラックスしているのか、を表現します。その縦の構造(テクスチャー)は、軽いテクスチャーを選びます。そして彼らの行動にだんだんと秩序というものを与えていきます。ただしあまり協和音で解決し過ぎないように気をつけながら。彼らが止まれば、動きを止める。そして協和音−不協和音に、軽さ−重さ、緊張−弛緩、方向性−非方向性にコントラストをつけるようにします。何回かこうしたセッションを繰り返すうちに、子供たちは自分のやっていることと音との関係というものを聞き始めます。こんなふうに探るようにピアノの方へ歩いてきて、ピアノを見、私を見ます。そして私を試すのです。急に走っていってみたり…、そしてピアノがついてきます。

「ああ、なかなかいいね。これ気に入ったな!」

というところです。今度は違う動きを試みて、音楽がついてくるかどうか確かめます。ここまでくるのに何週間もかかることもあります。しかしどのケースにも共通しているのは、クライエントとの信頼関係が大切だということです。この信頼関係を勝ち取るためには、セラピストは常に安定していて、同じように接することができる、つまり一貫性を保つことが大切です。

 こうした子供たちの次のステップというのは、彼ら自身がピアノを弾きたくなるのです。ピアノというものが、どれほどのパワーをもっているのか、ということを確かめようとします。最初彼らは私を椅子から追い出して、自分でピアノを弾こうとします。

「どいてよ!」

という感じですね。一度は彼らに触らせてみます。次に鍵盤の前で、二人が身体的にも接触する近さで、お互いの関係性を築いていくようにします。

 子供によっては、ピアノのところに来ない子もいます。そうした子供には、そろそろ準備ができたかな、と思う頃に太鼓を置いておきます。バチは置かず、太鼓だけです。それも表面のなめらかな太鼓を選んで、手を傷つけることのないよう注意します。このように、何か新しいものをひとつだけ置くことで、彼の注意をひくことができます。彼はゆっくりと、この新しく出現した太鼓の周りをまわって観察します。そして私を見ます。それから彼はどこかへ行こうとします。『私の知ったことじゃないからね。』というところでしょうか。そこで、私は私で勝手にピアノを弾いています。すると、『あれ?今日は何で私に注意を向けてくれないのかな?』。そこで彼は私の注意を引くために太鼓をバン!と叩きます。さてここからは、一人一人の子供と、それぞれ違う関係性を築いていく必要があります。彼らは言語を持っていません。ここで築く関係性、相互性というのは、言葉によらずに彼らが理解できるものでなくてはいけないのです。そういった場合、どうやら音楽というのは、彼らが理解することが出来る手段ではないかと、常々思うのです。

 

W:GIM

 56年が経ち、私はあるワークショップに参加しました。それは、「音楽によるイメージ誘導法(GIM)」というものでした。そこでは、全員が床に横になり、目を閉じて自分にとって心地良い体勢をとります。短いクラシックの曲を聴いて、自分のイマジネーションを自由に遊ばせるという作業を行います。私はそこで、ヘレン・ボニー博士が開発した新しいメソッドを学びました。このメソッドは、人間のイメージをクラシック音楽と結びつけるというもので、人間の非常に深いところを扱います。沢山の訓練を積まなくてはいけないものです。この頃私は40歳、音楽療法には15年から20年近く関わってきていましたが、それでもこのメソッドを使いこなすには、3年の歳月を要しました。

 このメソッドは、ここにおられる皆さんのような健常の方にも使うことができるものです。どちらかといえば夢の作業(ワーク)のようなものです。違った曲によって、いろいろな夢を見るような作業なのです。ボニー先生が開発したプログラムというのは、ある特定の楽曲を、目的に応じて選択していくものです。異なるイメージ、異なる夢の作業が行えるようにプログラムされています。

 私はこの技法を、私の個人クリニックで実践してきました。又ボランティアでしたが、死を迎える最終段階にあるエイズ患者に対しても行いました。これも又、これまでお話したものとは全く異なる音楽療法へのアプローチといえましょう。

 

X:まとめ

 以上で私のこれまでの臨床経験のおおよそをお話したことになります。これほど多様な内容であっても、それでもこれは全米4000人の音楽療法士の中の、たった一人の経験なのです。それぞれが自分の経験で、自分の方法で仕事をしています。このことをみても、音楽療法というものが、いかに多様で大きな世界であるかということがお分かりいただけることでしょう。

 次に、私は皆さんに、この多様な側面をもつ音楽療法というものを、ひとつの組織体系として提示するということで、お話してみようと考えています。そして今お話した様々な実践の方法に境界線を引いてみるという作業をしてみましょう。

 この本(Bruscia著“Defining Music Therapy”)では、これらの定義がそれぞれ1章にわたって紹介されています。私がここでお話したいのは、なぜこうしたひとつひとつの言葉が重要なのかということです。

OHP

 

作業上の定義

音楽療法とは:

 ・体系的な介入のプロセスである

 ・そこで療法士はクライエントを援助する

 ・健康を促進するために

 ・音楽を経験することを用いる

 ・及び、それを通じて発展する関係性(を用いる)

 ・変化への力動的な作用として

 

・体系的な介入のプロセスである

 「体系的」。この言葉が意味するところは、もし音楽療法士が実践をするために出かけていったとして、そのときふと思いついたことをやってみる、といったことでは決してないということなのです。先ほど私はクライエントについていけ、と申しました。こうした方法論を確立するについても、そのセッションそのものは体系立っていなくてはならないのです。まず、クライエントを準備させる段階があり、次にセッションを実践し、そして最後には閉じる作業をする、といったことです。体系立っているというのは、目的に応じて体系立っているのですね。音楽の経験を用いるのにも目的があるのです。こうしたことを行うときに根底におくことは、クライエントは何を必要としているか、ということです。どのような方法を用いるにせよ、その方法はクライエントに対処しているものでなければなりません。セッションが構造化されているかということは、クライエントのニーズに添って、問題によって、目標によって、構造化されているかということです。こうしたことで、音楽療法は体系的であるというふうにいえるのです。

 「体系的」ということには、もうひとつの側面があります。それは、査定の段階があるということです。査定とは、このクライエントの問題がどこにあり、どのような援助を必要としているのかを測るものです。次に、実際にクライエントとの実践という治療の段階があります。更には、そこでクライエントが何か進展をみせたのかという評価の段階があります。

 また別の「体系的」という側面とは、私たちが日々音楽療法について集めて組織立てていく知識の総体というものに基づいているということです。

 「プロセス」という言葉にも注目してください。プロセスであるということは、時間がかかるということを意味しています。音楽を使って一回魔法を起こすことではありません。音楽会にいって、ある瞬間に素晴らしい頂上体験をするといった経験は、プロセスとはいえません。特に音楽療法におけるプロセスとはいえないのです。それは重要な出来事ではありますが、始めと、まんなかと、終わりがあるというプロセスではないのです。療法というのはプロセスであって、療法士は一歩一歩クライエントと共に歩みを進めていくものです。クライエントの方も、一歩一歩変わっていきます。先ほどお話した知的障害児のケースのように、私もまた一歩一歩進んでいったのですが、子供の方も、私との関係性において、一歩一歩進んでいきました。多くの場合、療法というのは非常にゆっくりとしたプロセスをたどります。

 また音楽療法というのは「介入」です。クライエントが何をしようと、そこでどんなことが起ころうと、それは誰かが「介入」しなければ起こりえなかったことでなければなりません。例えば頭痛がしても、薬も飲まずに治ってしまったとしたら、それは療法ではありません。何かが自然に治っていく、そこで誰かが何らかの力をおこすことなく治ってしまったとき、というのは介入とはいえませんし、療法でもないわけです。

・そこで療法士はクライエントを援助する

 療法士がクライエントを援助するということをお話する前に、まず療法士というものを定義しなければなりません。療法士というのは、療法士ではない人とは異なる役割を持っています。療法士とは、教師でも、友達でも、家族の一員でもありません。療法士は、ある特定の役割を持っています。つまり、その人の人生に介入していくという特別な役割を持っています。療法士とは、他の人では持ち得ないような、その人についての情報にアクセスすることができます。教師が皆さんに対して持つべき情報と、療法士が持つべき情報というのは違うのだということを考えてみてください。又、療法士というのは、療法士であるための訓練を受けた人です。それは何か特別な能力を持っているということだけではなくて、社会がその能力を認め、何らかの資格を社会から認可されている人なのです。医者にかかるときにでも、医者には医療についての訓練を受けていてほしいと思いますよね。そればかりでなく社会から医師としての免許をもらっている人でなければ、とも思っているわけです。音楽だけでなく、他のどのような療法においても、自分の人生に介入してもらう以上は、自分たちのしていることが何であるかを分かっている人であってほしいですね。そして社会によって、その役割をしてよろしいと認可されている人であってほしいと願います。

 その対極に位置するクライエントとは、どのような人でしょうか?クライエントとは、病気の人だとするかもしれません。でも病気の人がみんなセラピーに来るわけではないですね。セラピーを受けに来る人が皆、疾病を持っているわけでもありません。何か問題を抱えている人が療法にやってくるのです。これは言い換えると、療法士が提供できる特定的な援助を求めている人ということができます。例えば、皮膚病に罹ったとき、あなたは援助が必要です。皮膚の病気について詳しい、皮膚科の医師のところに出かけるでしょう。あなたの皮膚のトラブルに介入してもらうために、そしてこのことがあなたに利益をもたらすために。療法においては、人生において何か問題を抱えているとき、例えば、自分に自信が持てないという問題を持っているときとか、演奏の本番前に、とてもあがってしまうとか、こうした問題を解決するには援助が必要です。こうしたことは病気とは違いますね。狂っているということでもないですね。ただ援助が必要なのです。援助を必要としている人というのがクライエントの定義であるとすると、どんな人であっても、人生のどこかの時期において、何らかの援助を必要とすることは起こるでしょう。ですからクライエントであるということは、何ら恥ずべきことではありません。恥ずかしがることはないのです。

 セラピストとクライエントの関係というのは、援助する人と援助される人であるといえるでしょう。ではここで「援助する」という言葉を考えてみましょう。もしも皆さんが私に何か援助を必要としているとき、私には何か皆さんの代わりを務めることなどできません。皆さん自身がすることです。私は助けるだけです。療法士というのは、療法士が変わるのでも、変化を起こすのでもなく、援助するのです。

・健康を促進するために

 療法の目的についてですが、それは健康を促進することです。健康とは何でしょうか?

いろいろな種類がありますね。身体的な健康、精神の健康、魂の健康、感情の健康。私たちが健康であるとみなすには、こうした様々な側面が含まれています。人によっては、健康とは病気がない状態だと主張することでしょう。何か正しくない状態から解放されている状態を健康というのだ、ということになります。こうした考え方というのは、医学に代表されるモデルといえるでしょう。私たちが新しく考える健康というのは、単に病気ではないというだけではなく、たとえ病気であったとしても、それと戦っていける状態にあるということです。健康とは、戦う強さ、抵抗、ウェル・ビーイング(良いあり方)、自分を脅かすものに対して戦っていく力。人生においては、何か自分を傷つけようとするものから、自分を守らなければなりません。このように健康というものをとらえてみますと、様々な理由から、私たちは多様な種類の健康を必要としているということが分かってきます。

 さて、ここまでは、どのような療法にもあてはまる定義についてお話してきました。ここで定義していかなくてはならないのは、音楽療法を特定しているものは何かということです。もちろんそれは、音楽を用いる、ということですね。この後、どのように多様な種類の音楽を用いるかということについても、お話していきたいと思っていますが、この定義は音楽療法というものを、非常に特定的に定義しているものなのです。もしここで「アート」という言葉に置き換えれば、それはアートセラピーの定義であり、ダンスと置き換えれば、ダンスセラピーの定義になります。

 さきほどお話した沢山の実践例を思い出してみてください。そこでは、音楽が非常に力強い重要な役割を果たしていましたが、それと同じくらい重要なことは、クライエントとセラピストの間に築かれ、発展していった関係性の問題でしょう。それは、言い換えれば、クライエントと音楽の関係でもあり、クライエントと彼の家族の関係、さらにはクライエントと神との関係でもあります。音楽には、私たちが人生で持つ、あらゆる関係というものを築いていく力を持っています。

 関係性というのは、音楽療法においても非常に重要なことのひとつです。音楽とは関係です。それは私自身の中の違った部分の関係であるかもしれません。頭で考えていることと実際に弾いていることとの関係、私が聴いていることと他の人が聴いていることとの関係、私と聴いている他の人との関係、演奏者と聴衆との関係、演奏者と作曲者との関係…。たとえ練習室にたった一人でいるときであっても、あなたは関係の中にいます。作曲者との関係、楽器との関係、そして聴衆との関係です。

 この音楽を経験するということと、それを通じて発展する関係性というものを用いて、私たちはクライエントを変化へと導いていきます。療法がずうっと続いていて、それでもクライエントが変わらないとき、それは療法とは呼べません。もし薬を飲んでも効かないとき、それは療法とは呼べませんね。結果が変化をもたらしていないからです。もちろん治療を受けたということは事実です、が、本当は療法はそこでは起こっていなかったことになります。

 次に、音楽を経験するということの種類、性質をみてみましょう。音楽の経験には、基本的に次の四つの種類があります。

OHP

・即興的経験

・再創造的経験

・作曲の経験

・受容的経験

・作曲をする

・演奏をする

・即興する

・聴く

これらが、音楽療法士が実践において用いる四つの方法です。先程私がお話した、あらゆる技法は、ここから出てきているのです。最初の例として掲げた、青少年施設での実践においては、演奏から始めました。もう既に作曲されている既成の歌から始めたのです。それは構造を持っており、彼らの違いをつなぐ媒介として働きました。歌が彼らにとっての、守るべきルールになりました。この歌をうまく演奏しようとすれば、彼らはそれぞれに課せられた課題を、うまくやり遂げなければなりませんでした。音楽療法において、演奏するという技法を用いるのは、彼らにそこにある構造の中に入ってくるということを求めることになります。そこでいろいろなスキルを身につけ、その構造を生かすために、様々なスキルを学んでいくということになります。演奏において重要なことは、あなたは音楽に息吹を与えているということです。作品や歌というものは、ふだんは沈黙の世界にあり、演奏者が来て、その曲に一歩踏み込むことで、音を作り出すことで、その作品に生命を与えるのですね。しかもそうしていることによって、演奏者は作曲者に多くの注意を払いつつも、自分自身をも表現していることになります。こういった経験を積むことで、クライエントの方たちに、自分を発見してもらうのです。感情を表現してもらいます。作曲者が作り上げたラインの中で自分を表現するのです。ここで大変重要な人生上のスキルというものがあります。皆さんが生きている毎日の生活の中では、自分はいったいどのような人間なのだろうということを見つけ出しながら、自分が感じることを何とか表現しながら生きているということは、その生きているという構造の中に自分を当てはめて過ごしているということなのですね。こうした再創造的経験、言い換えれば、演奏するということは、次のような援助を必要とするクライエントに適しています。

 あの青少年たちは構造が必要でした。もう既に知っている歌というものの中に構造を発見したとき、彼らは自分たちで新しい構造を作っていこうというように変わっていきました。それが作曲経験です。そうすることで、彼らは作曲者、演奏者の両方を経験します。それはつまり青年が大人になるということではないでしょうか。最初は、初めからある構造の中に生きて、次に自分で新しい構造を作り出す。自分で自分自身の家族というものを創っていくわけです。

 さて「作曲する」ということですが、作曲とは、何もないところに、あるものを作り出すことです。自分の想像力の中から何かを引き出して、それをアイディアとしてまとめ上げ、そのアイディアをレンガのように組み立てながら、音楽というひとつの大きな建築物を作り上げるのです。作曲家というのは建築家と似ていますね。作曲家は、家を建てます。音楽の場というものを築きます。その家の中に演奏者や聴衆が住むのですね。ですから、音楽療法において、作曲という技法を使う対象とは、自分のために新しい空間を建築する必要がある人、自分が住むための新しい家を建てなければならない人です。

 「即興」。考える時間はありません。他の人の曲などではなく、あなた自身が作曲家であり演奏家です。たった今、この瞬間にやるしかない。いったんドアを開けてしまったからには、どう進むか、たった今何をするかを即断即決するしかないのです。今私が話していることも、その瞬間にそって話をしているのです。一瞬一瞬私は選択をし、方向を決めます。こうして話を続けながら、なんとかそこに全体としての意味を作ろうとしています。即興演奏とは楽しいものでなければならないし、自発的であるべきです。瞬間的で、決断を要し、そして個人的なものです。人生においてもこういった援助を必要とする人に対しては、即興という技法を用いることが適切であるといえます。

 最後に「聴く」とか「受容的経験」ということに進みましょう。それが受容的といわれるのには、それなりの理由があります。よい聴き手というのは受容することが上手な人です。そういう人は自分自身を開き、外界のものが中に入ってくるままに受け容れます。本当によく聴くということは、私という自己をあなたのために開いているのです。演奏している人の考えや感情を私の中に入れていくのです。私には身体があり、音によって身体それ自体も影響を受けますし、感情も考え方も影響を受けます。音楽を聴くという行為は、あなたのすべての意識を必要とします。自分がいた場所から解き放たれて、違う場所へと飛んでいきます。このように音楽を聴くという体験はすべて、療法的に用いることができるのです。

 以上が四つの基本的な音楽療法の種類です。そこからどのように選ぶかは、クライエントのニーズによります。こういった、一つ一つの音楽経験が人に要求していくこと、それが、クライエントが持っている健康上のニーズとなんとか適合していなければいけないのです。こんな風にして、私は皆さんを音楽療法の世界旅行にお連れしたことになります、それもほんの表面だけに触れながら。おそらくみなさんには沢山の疑問が起こってきていることでしょう。

 

 質問をどうぞ。

Q:音楽療法において使われる音楽の用法についての質問です。Music in therapy Music as therapy という言葉がありますが、先生はこの二つの言葉を、どのように違うととらえておいででしょうか?

A:おお、これはかなり上級の質問ですね。私たちは「療法としての音楽」というものは、クライエントが音楽それ自体の中で変化し始めるときに使います。音楽の中で、音楽そのものによってクライエントが変化することをいいます。

 一方「療法における音楽」というのは、音楽以外の療法において、音楽は何か補助的な援助として用いられていることを指します。音楽以外の療法が行われている場面や、療法において音楽ではない側面に焦点があるとき、例えば沢山の話をしているといった場面においてですが、言語によるやりとりのなかで、療法的な変化が次第に起きているとき、その言語のやり取りを刺激するために音楽を用いることがあります。それが「療法における音楽」です。

 例えば、先程お話した青少年との実践例は「療法としての音楽」です。彼らはその行動や姿勢といったことを、音楽そのものの中で変化させていったからです。私たちが彼らと言語によるやりとりをしたことで、彼らが変化したのではなく、音楽そのものの中で彼らは変わっていきましたね。

 一方、精神科の病院での実践例では、音楽が彼らの言語によるやり取りを助けています。彼らは言語による療法的やりとりの中で、変化を遂げていきました。これは「療法における音楽」です。

 この二つの区別とは、音楽が療法の主要な焦点であるか、それとも音楽は他の療法の形態を助けるための補助的な手段であるか、ということにあります。「療法としての音楽」の分かりやすい一例に、ノードフ・ロビンズの療法があります。そこでは音楽そのものの中でプロセスの変化がおきているからです。

 

Q:二つ質問します。音楽療法士が仕事を続ける上には、Sabbatical? Moment[停滞期], Transition[移行期]の時期がたくさんあると思います。その時期に新しい領域のクライエントに向かい合ったとき、色々な気持に対面することになります。そのときに、自分自身がそれまで信じていたコンセプトを否定しなければいけなかったりとか、自分の気持をかなり掘り下げていかなければいけないと思いますが、このように非常につらいプロセスを音楽療法士というのは何度も経ていかなければならないものなのでしょうか?質問するということがおかしいかもしれませんが…

A:同じような心の旅というのは、音楽に携わる職業であれば、それぞれが経験することになるのではないでしょうか?もし、私が音楽家としての人生を送っていたとして、そういったトランジッションや葛藤をバッハを演奏しなければならないという局面において感じたことでしょう。自分にとって心地良いものではないというものに向き合ったとき、そういった感情は必ず起こります。バッハを弾いていると、どうも自分の性格と合わない、といったときにそういった戦いになりますよね。なぜなら、私はもっと自然にショパンと向き合える人間だからです。私は自分自身を引き伸ばさなくてはいけない。新しい世界に入っていくため、新しいものの考えをとりいれるためにです。

 療法においては、新しい対象者領域に入るたびに、まったく新しい音楽空間に入っていくような気がするものです。その中で、何とか自分にとって心地よいあり方を見つけなければなりません。私が思うには、音楽それ自体においては、この柔軟性というのはひとつのモデルだと考えます。音楽というものは、その楽曲の中に限りない可能性を秘めているからです。基本的なアイデンティティというのは同じかもしれませんが、その同じ曲を異なる演奏者が弾くときには、中で変わりますよね。音楽療法士の場合には、新しい対象者が音楽空間に現れるたびに、同じプロセスをたどります。あなたはしっかりとアイデンティティを保ちつつも、この新しい対象者(occupant)との空間を作ってあげることになります。

 さらにその上に新しいプロセスがあります。そこでは音楽家としての自分が変わっていきます。こうした小さなトランジッション(常におこっていますね)と大きなトランジッション、高いトランジッションと低いトランジッション。音楽というものの基本的なコンセプトを身につけていれば、どのような療法上の葛藤も乗り越えていけるものです。音楽というのは健康のモデルそのものです。

 

Q:さきほどMR(mentally retarded精神遅滞)の患者に対して、be in consistence どのような自分がよいのかを決めて接するといったことを言われましたが、それについてもう少し詳しくお話いただけますでしょうか。

A:一つ目の質問ととても密接に関わっていることですが、私が一貫性を保つためには、私自身を彼らの空間の中におかなくてはいけません。その空間において、私も心地良く、彼らも心地良いと感じたそのとき、私はもっと強い錨を降ろすことになります。いろいろなクライエントに対して一貫性を保つというだけではなく、一人一人のクライエントに対して一貫性を保つのです。伴奏者のことを考えてみましょう。すべてのソリストに対して、同じテクニックを使うということはできませんね。各ソリストに対して、それぞれの役割というものが違ってくるはずです。一人の演奏者に対しては、あなたは一貫性を保って対しますね。この比喩は、あなたの両方の質問に当てはまるものではないかと考えます。伴奏者は時々、ソリストをリードし、準備し、ついていく、そして終わります。

 

Q:実践の報告の中に、知的障害者の施設でのお話がありましたが、こうした施設には非常に重度の方から、楽器を持てる方までが入所しています。こうした様々な状態の方たちがひとつのグループとして活動するときに、そのみなさんに共通してできるようなセッションというのはあるものでしょうか?

A:不可能だと思います。それは療法ではありません。体系的になりえないばかりでなく、あなたは特定の対象それぞれのニーズに答えてはいないからです。療法においてグループを組むというのは、何かそのニーズにおいて共通するものがあるからなのです。全く異なるニーズを持っている人を、ひとつのグループにしても、結局は誰に対しても行っていないということになります。セラピストとして活動するのは不可能な状態にある、といえるでしょう。施設の長というのは、どうも沢山の人を一度にやってほしいというように押し付けてくる場合が多いと思いますが、あなたにとっては困難な努力となるかもしれませんが、何とか「これは療法ではない」ということを伝えてほしいと思います。どんな療法家が「これをやってみよう」と提案したとしても、それはうまくいかないと思いますよ。

 

ありがとうございました。今日ここに来られた皆さんが、何か音楽療法について、又、音楽について、新しいことを学んでくだされば、と願っております。

記録文責:yabe@lib.kunitachi.ac.jp